カナキティ徒然草

舞踏家カナキティ、日々のつれづれ。

こんばんは、カナキティです。

4月に入るともう時が過ぎるのが速すぎてビビりますね。あっという間にスケジュールが埋まりますわ。


さて、友人夫妻のとその子どもに会うという日々が続きました。忙しくなる前にね、ちょっと時間を作りたくてね。すぐ大きくなっちゃうからね。

1組目はダンサー夫妻で、子どもはもう赤ちゃんじゃないのだけれど。どんどん歩いて足腰強くなっててすごいやね。久しぶりに会ったらこれまたいっきに成長していて可愛い。

そしてもう1組は本当にまだ2ヶ月ちょっとで、本当に赤ちゃん。

パパとママにご飯を食べる時間をと思い、早めに食べ終わったわたくしが抱っこを申し出てみました。

そしたらうまいこと寝てくれまして。

こんなに長いこと赤ちゃんを抱いていたのは初めてかもしれない。

なんとも幸せでしてね。とろけるような一体感と言いますか。

親友にそれを話したら「赤ちゃんは温かくてふにゃふにゃで幸せの塊」と。

本当にその言葉通りなのですね。経験したことのないような幸せを体験させてもらいました。

四六時中はもちろん大変なのでしょうけれど。


今年の年明け頃に思いました。(新年で同級生たちと連絡を取って)

「あれ、いつの間にか私めっちゃ独身て感じの暮らしだわ…」

なんだかすごく実感したのですよね。

少し前に、二児の母である親友が「なんか私お母さんみたいじゃん」って思ったと話していて、私はその感じでめちゃくちゃ独身を実感していました。板についてきたというか。笑

二十代は当たり前にいつか自分も母になるのだろうと思っていました。離婚してしばらくも、またそんなことがあるのかもしれないな、くらいに思っていました。

しかし段々と年齢や生活が現実味を帯びてきて、私はこのまま独身街道真っしぐらかもしれないなと思うようになってきた近頃です。


本当にこの体感は、ドラマや小説に描かれているものそのものですね。面白い。

独身で生きる女性たちと、母になっている女性たちのコントラスト。

巷に溢れるような物語にしっかりハマってしまう感覚で、そういうものなのだなとしみじみ思ったわけです。

いろんな生き方があっていいという時代で、もちろんそれを支持しています。

でもやっぱり、母になっている人たちにどこか敵わないような小さな切なさのようなものがある。

結局「隣の芝は」ということなのかもしれませんが。

どんなに作品を産んでも、人間が人間を生み出してしまうことのすごさよ。

人にはそれぞれ役割があってそれでいいのだと心底思っているのですが、自分がこんなことを「考える」のではなくて体感するようになるとは、身体にとっての時間の経過は本当に面白いなと思います。私の身体が変化を感じているのでしょうね。


それにしても父親像なんて想像もできなかったような友人が(本人も自分の人生にそんなことがあるとは全然思っていなかったような人ですから)しっかりと父親になっていて、そんな姿を見られる世界線は最高だなと思いました。

ちなみに、女好きというか女の扱いが上手い男性、女性経験の多い男性、平たく言えばモテる男性の方が、子煩悩になるのかもしれないと友人を見ていてふと思ったのですが、これはどうなんでしょうか、全国のママさんたち。

結局モテる男性って、要は気配りが出来るじゃないですか。他人に割いているエネルギーが多いじゃないですか。それがそのまま、我が子という新しい大切な存在に応用されているように見えて。

知りたいな。


あと、独身の人に対して「家庭を持たないと半人前だ」みたいな言い方で、結婚や子供を持つことを勧める風潮はいい加減になくなるといいですよね。もう令和だしさ。笑

それはやめようよ。笑

ダイバーシティでいこうぜ。

もうちょっといいプレゼンしようぜ。

結婚のことしかわからないですが、私は結婚は自分をより自由にしてくれたと、独身になった今でも思っています。

まだ結婚は墓場だなんていう古い考えの方がいたら、それはそんなことないよっていう話。

いろんな結婚の形がある時代ですからね。

さて、10年後カナキティがどんなことを書いているか、楽しみですよ。


今これ書いてて、今月のピルの開始日をとうに過ぎていることに気付いて、うわーと思っています。

女であることは大変ですな。

こんにちは、カナキティです。

皆さん、いかがお過ごしでしょうか。前回の記事を書いたら友人の監督に「良いね、もしかしてもうすぐ死ぬ?」と言われて「そうなのかなー?」なんて笑っていましたが、実際その後私のiPhoneが死にました。しばらく社会と断絶され、計らずともSNSデトックスをたっぷりすることとなりました。ただいま電子の海よ。


今日は唐突に、飛行機の話をしたいと思います。

20代、毎年ヨーロッパやアジアへ公演に行っていた頃は、本当に頻繁に飛行機に乗っていました。しかも長距離。お金がないから乗り継ぎまくる、長時間のフライト。

でも私はわりと飛行機の時間が好きなんですよね。これわかってくれるひと、いるだろうか。

特に当時は物凄く忙しかったせいかもしれないのですが、10時間近く、とにかく何も出来ない、電波も届かないところにいる、というのはなんだか心地よくて。最近はWi-Fi使えちゃいますけどね、機内も。

だってさ、休もうと思っても休めないじゃない、自分の生活のなかにいると。次々なにかやらなきゃならないことがでてきて。だから完全に無、みたいな時間はとても豊かに感じましてね。今はそういう時間を意識的につくれるようになった気がするけれど、若い頃は本当に休み方がわからなかったな。

そして機内では出来ることがすごく限られているのもいい。映画にしても、あるものの中から選ぶしかない。そして飛行機で観ると、ほかにすることがないから大体のものは普通より面白く思えるような。あれは特殊な脳の状態なのでしょうね。不思議な集中の仕方になるし。なにせ空中にそんなに長いこといるのだからね。身体がその影響を受けないわけがない。実際、CAさんたちは自律神経を壊してしまうことがあったりするそうで、本当に大変なお仕事と思います。

さらには時間の感覚もなんだかおかしい気がする。自身に対して経過している時間というのは一定の事実としてあるけれど、国を跨いでいくと、前日に向かって進んでいくわけですから、なんだかワープのようではないですか。逆行じゃないですかそんなの。大体日本から何処かへ向かうと、時差は「マイナス何時間」という国ばかりで、つまり過去に向かっているってなんだか、SFっぽいです。ロマン感じます。

しかも空の上で、何処の国にも属していない時間なわけです。治外法権みたいな。いや、正確にはそれぞれの空にも国境があって、航空法があるでしょうけれど。笑

でも、あるときハッとしたことがあります。何歳くらいの時だったのだろう。十代だったかな。飛行機の窓から通過する何処かの国の土地をぼんやり眺めていたときのことです。ふと思ってしまったのです。

「うわ、当たり前だけど国境って実際には引かれてないんだ

すっごいバカみたいなことなのですが、なんとなく私が世界というものを思い浮かべるとき、それは世界地図のイメージなのですよ。だからといって、土地に本当に線が引いてあるわけないのに。でも実際にこうして線が引いてあるわけではない様を目の当たりにすると、なんだか感動してしまったのです。人間が勝手に区切ってるだけなんだなって。土地を。

それでなんだか、国はそれぞれあるわけなのですが、なんというかもっと地上を全体的に捉える感覚になったというか、そんな姿に相対したというか。まるっと地球なんだなって感じちゃったわけです。これが宇宙から見るならば、もっとはっきりそう思うのだろうな。本当に私たちは一つの星に住んでいるのだなって。


そんなわけで、飛行機についてでした。

海外旅行とは、外国に滞在することだけに体験があるわけではなくて、もう日本の国際空港に着いた瞬間から、旅のインスピレーションは始まっているように思います。あの「ここから世界に立ち向かうぞ」という感じ、そして慣れ親しんだ暮らしや人から遠ざかっていくような寂しさと焦燥感。特に成田空港のあの古さと何にもないだだっ広い感じはいいよね。まあ遠いから羽田が国際空港になって本当に嬉しいですけどね。

私は観光はほんとうに興味がないし、日本にいてもレジャーが苦手なのですが、旅は好きです。移動するのが好きってことなのかな。笑 

何処かから何処かへ向かっているとき、一人でいろいろ考えること。それは大体、圧倒的に孤独で自由。外国のひとに囲まれて、見知らぬ土地で見知らぬルールのなか、自分のちっぽけさをひしひし感じる。普段の生活では体験し得ない、Vunerableな状態になる。そうすると、己の無力さがよくわかる感じがします。

そういうところだろうな、私が旅が好きなのは。自分を追い込んで未知の体験をしたがる。ドM

別に旅慣れてるとかではなくて、自分でも毎回よく一人で飛行機乗れてるな、乗り継ぎとか出来てるなって感じなんですよ。いや、実際出来てないのよ、何もスムーズには。知らないおじさんとかが助けてくれるだけで。そういう一つ一つを細かく記憶している。誰かに親切にしてもらった温度で、この身体ができているような気がする。


オマケでもうひとつ。私は何故か、離陸前の緊急時の案内をものすごくちゃんと見てしまう。酸素マスクの装着の仕方とか、脱出の仕方とかのやつ。それって普通?皆こんなにちゃんと見てる?笑 頭に入れたところで実際迅速に動けるかは自信がありませんが、私の中の優等生な部分が出てしまいますね。おほほ。

各航空会社によって、それぞれビデオが違って面白い。SASとかはなんかすごいオシャレで、美しい北欧の自然を背景にめちゃくちゃスタイリッシュに説明が出てきます。スタイリッシュ過ぎてちょっとわかりにいけど。笑 

国内線などで座席にモニターがない便だと、CAさんが自らやってくれるよね。あれをいつもかっこいいなって思っています。あの慣れたスムーズな動き。

ではhave a nice flight.

(こんな時期に皆飛行機乗る予定なんてないと思うけれど)

ふと、これは私の大切な人たち、そして私を大切に想ってくださっている人たち皆に伝えたいと思ったので、何様だよ自分とかつっこみを入れずに、勇気を出して書きます。

今年34歳になる私が辿り着いた、生きていく上で一番大切だと思うこと、生きていくための知恵、虎の巻です。


この地球で生きていく上で最も大切なこと、それは

・自分がどう感じているかを自覚していること

・そしてその上で「自分がどうしたいか」「どうなったら嬉しいのか」を自覚していること

これに尽きる。というか、これさえわかっていればなんでも乗り越えていけるし、むしろその状態こそが人間にとっての最上の幸せなのではないかと思い当たって。


簡単ですか?

いやいや、よくよく自分を注意深く見てみて下さいな。

私たち現代人は、ほぼほぼ自分の感情反応に気付いていないのではないでしょうか。

自分の感情に無自覚だし、自分の行動にも物凄く無自覚だと思うのです。

忙しいし、どんどん流れていくし。

だから瞑想とかマインドフルネスとか流行ったのではないかしら。


他人がどう思うかとか、あるいは起きている出来事ばかりにフォーカスして「自分が何を感じているか」が、なんと疎かになっていることか。

例えば、何かが起きて腹を立てる。でも怒るという反応は、きっと防衛本能から来るものだから、その奥にきっと傷付けられた何かがある。きっと何か悲しかった。何が悲しかったのだろう?

あ、そうか私はこれが悲しかったのかー。これが不安だったのかー。

そこにたどり着くだけで、問題は99.9%くらいは解決、というか自身が満たされるような気がします人間は。実際の出来事が解決していなくても、気は収まるし、腹が据わった状態になるというか。

世間がどう思うかとか、私ってばそんなこと思うなんて恥ずかしいとかダサいとか、どうでもよくて。

出てくる感情をそのまま丸ごと受け止めること。

別に誰かに言うわけじゃないのだから。自分の中だけの話だから。

とにかく自分がまずわかってあげること。

それをすっ飛ばして他人を攻撃したり、なんなら自分でその感情を受け入れるのがこわいからすり替えて他人になんとかしてもらおうとしちゃう。でも本人が自分の気持ちを自覚出来ていない状態でのやりとりは不毛だ。自分でも求めるものがわかっていないんだから。

そう、だからまず自分がどう感じたのかを感じ切る。そうすると感情の波は小さく静かになっていきます。

そして次に、自分はどうしたいのか。どういう状況なら好ましく思うのか。それをはっきりさせる。

そこまで来るとかなり、自分の次に取るべきアクションが見えてくるんじゃないでしょうか。

なんなら、アクションをまだ起こさないという選択も出来ます。

だから最初に「自覚する」と書いてみました。

行動は起こさなくてもいいのです。そういうのって状況によると思うから。すぐに相手に話すとか出来ないタイミングもあると思うし。それはたぶん、その時できる範囲で良くて。

ただ、その瞬間のできる範囲の最善を尽くすと。それはとても自分に寄り添ってあげる行為だから、ハートは喜んでくれる気がします。

今は行動しないぞって決めるのも、その時出来る最善です。

そしてそれによってすぐに現状が変わらなくてもいい。この全部のプロセスこそが、既に人間の幸せなんじゃないかなって思うからです。他人からもらうなにかはオマケみたいなもので、ずっと自分自身との付き合いでしかない。自分に対してだけ、自由と責任がある。


私はなにか例えるのがとても苦手なのですが、ひとつ事例を。笑

一年位前のこと。私は所属事務所にあることを打診しにいきました。まったく大したことじゃないです。でもそれまでに自分としてはけっこう悩んでいて、しばらくもんもんとしながら我慢していた事でした。

そういうわけで自分がどう感じているのかにしっかりと向き合って、さらにどうしたいかを叩き出し、この時の場合は、それを「伝えてみる」という行動を起こしました。

実際には私の打診は受理されず、状態は続行という結果になったのですが、ここですポイントは。

別に現実は変わらなくてもいいのです。

でも私はしっかりと自分の気持ちを自覚して、それを伝えてみるという行動をした。それだけで私の心はかなり満足して、その後現状維持となったにもかかわらず、むしろ頑張り続けることが出来たのです。

結果的に自分の求めるようにはならなかったけれど、話を聞いてもらえたことにも感謝がわいたし、向こうも私がどう思っているかを知ることが出来た。

あら、変わっていないようで、いい事しか起きていない。

「すごいじゃんこれ」って私は思ったのだけれど、そうでもないかしら。笑

あとこの例えで伝わったかな。笑


最近親友と、他人に察して欲しいってのは本当に無理なんだよねって話をしていました。伝えなきゃわからない。察して欲しいって、すごい甘えですよそれはもう。

そして、他人に察して欲しいと思っている時ほど、自分の気持ちが自分でわかっていないという不思議。パラドックス。

「わかってよ、察してよ、こっち見てよ」は他人に対してではなく、自分の奥から来る自分へのメッセージなのですね、きっと。本当は自分自身に一番見てもらいたい、わかってもらいたい。

人間の心の仕組みは不思議で壮大です、本当に。

しかも悪循環なことに、自分が自分で何を求めているのかわかっていないと、仮に相手がそれをくれたときに受け取り損ねるんですよね。自分で気付いていないわけだから。それが欲しいって。

これがしっかり自分の感情と求めるものを自覚していると、それだけでわりと既に満たされているから他人に期待しないし、同時に受け取る準備は万端だからそれが与えられるときにはすんなり受け取れる。しかも他人に期待していない分、それがいかに奇跡的で有難いことかがわかっているから感謝できる。


文字ばっかりだけれど、大丈夫?笑

なかなかシンプルに説明できないものだ

もう少しまとまったらまたいつか書きます。

とにかく、皆が自分らしく生きてゆけますように。

なんか夢を叶えるとかそんなことマジでくそどうでもいいんだよ。

自分らしく生きるってのは呼吸するだけで達成されるから。

人間として本来与えられた、最低限の尊厳と最上の喜びの話だよ。

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